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幸手周辺の名所探訪

幸手の名所探訪(情報整備中)

桜の名所

権現堂公園

 権現堂公園には、少なくとも4つの顔があります。桜と菜の花の公園、アジサイの公園、曼珠沙華の公園、そして湖と散歩の公園です。

(1)桜と菜の花の公園

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 幸手市は、関東地方でも有数の桜の名所として知られています。毎年、桜の時期になると、各テレビ局や新聞などメディアの取材があります。このため、一般道は交通渋滞が起き、私たち地元民は、遠くの裏道を使うようにしているんです。
 この権現堂、春になると桜並木とその周囲に広がる菜の花畑で賑わいます。桜と菜の花の黄色のコントラストは最高です。

(2)アジサイの公園
 6月は、アジサイの公園ともなります。下の写真は、平成28年6月5日に撮影したものです。結構人出もあり、賑わっていました。きれいに咲きそろっていましたが、昨日、梅雨入りしたばかりで、アジサイにとっては、まだ本番前というところかもしれません。

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 あと1週間遅い、6月12日前後が、本当の見頃なのかもしれません。でも、今でも十分に鑑賞に堪える美しさだと思います。

(3)曼珠沙華の公園
 9月には曼珠沙華(まんじゅしゃげ:彼岸花とも呼ばれる)が見頃を迎えます。

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(4)湖と散策の公園
 権現堂公園に隣接する行幸湖(みゆきこ)には大噴水や散策路が整備され、住民の憩いの場として親しまれています。この行幸湖は、カヌー競技の会場としても利用されています。この行幸湖と権現堂堤を結ぶ外野橋(そとのばし)は、優雅なシルエットの吊り橋で、幸手市の新たな観光名所として人気を博しています。

幸手市の観光情報

◆市の観光情報は、観光協会の図でご覧ください
こちらからどうぞ

平将門の首塚

 大字神明内の浄誓寺の本堂裏手には、高さ3mほどの塚が築かれています。これが市指定文化財(史跡)の「将門の首塚」です。

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 平将門は、10世紀前半(平安時代中期)にいわゆる「平将門の乱」を起こした人物です。この塚は、戦死した将門の首を愛馬がくわえてここに運び、村人か家来が埋めたものといわれ、その伝承を物語るかのように古い五輪塔が塚上に安置されています。
 この塚の歴史を示す資料に江戸時代の元禄16年(1703年)に、大名の水野隠岐守勝長の家老・水野織部が著わした『結城使行 全』(茨城県結城市発行)があります。
 そこには、以下のように書かれています。
 「ここ(上高野村)から一里(約4㎞)ほど東北の「しへ打」(神明内)という村に平親王将門の墓所があるという。また、木立という所は、将門滅亡後に子孫が隠れ住んだとして「公達村」(木立村のこと)と書くという」(原文意訳)

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 この資料は、有名な赤穂浪士の討入りの翌年に書かれたものです。つまり、今から300年前、すでに将門の墓の情報が世間に知られていた事実を確認できるのです。
 平安時代に生きた平将門と、幸手との具体的な関わりを示す史実は伝わっていません。しかし、江戸時代の初めまでの市域は、将門と関係の深い「下総国猿島郡」に属していました。いわば、同じ郡内で活躍した人物が将門であったということです。
 写真の墓石は、私が訪問したH28・5・15に撮影したものですが、3連の石が重なった塔頂部分はなぜか下に降ろされていました。ですから、上の説明で「五輪の塔」と表現していますが、当日は、何らかの事情で2輪と3輪に分割されていた、ということになります。

本因坊三代の墓

★第8世伯元の墓

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 幸手市内に囲碁の本因坊三代の墓がある、ということは聞いてはいました。しかし、実際に見学したことはありませんでした。そのうちの一人第8世「伯元」の墓は、日々自分が生活している徒歩圏内にありました。
それが、右の写真です。余りにも粗末な墓石であることに驚きました。当時の生活レベルが偲ばれる墓です。今の世であれば、本因坊の墓ならもっと立派な墓になっていたことでしょう。

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 ウイキペディアの解説によれば、次の通りです。
 武蔵国幸手郡天神島村の生まれ。15歳で本因坊秀伯の門に入る。寛保元年(1716年)に秀伯が危篤となったため、家元会議で跡目に選ばれ、安井春哲仙角添頑で家督願いを出して認められ、秀伯死去で家督を相続。同年に御城碁初出仕、仙角に先番ジゴとする。寛保3年(1743年)には、林因長門入が名人碁所就位願いを出すが、仙角とともに反対し、断念にいたらせる。宝暦元年の御城碁で井上春碩因碩に先番3目勝ちし、これにより六段昇段したと伝えられる。
 宝暦4年4月に病に倒れ、井上春碩因碩が代理となって弟子の間宮察元を跡目とする願書を提出、寺社奉行からは一旦病気療養の命とともに差し戻されるが、8月に再提出し認められた。9月27歳で没する。法名は日浄。本妙寺に葬られる。御城碁は12局を勤めた。

★第9世察元の墓

察元の墓

 武蔵野国(現在の幸手市平須賀)に生れ、本姓は間宮、父は又左衛門とのこと。宝暦4年(1754年)六段時に伯元が病に倒れ、井上春碩因碩が代理で察元を跡目とする願書を書き、跡目を許可されたとされています。
 その後の9月に伯元は没し、因碩に伴われて登城して老中松平左近將監より家督相続を認められる。翌宝暦5年(1755年)に御城碁初出仕、因碩に先番4目勝ち。

★第10世烈元の墓
 烈元について、ウイキペディアでは、次のように語られています。
 幕府御数寄屋方組頭の山本家に生まれる。幼時より察元に学び、察元が碁所に就いた1770年(明和7年)21歳六段の時に察元の跡目とされ、同年御城碁初出仕。1788年(天明8年)に察元が死去し、本因坊家の家督を継いで本因坊烈元となる。

烈元の墓

 跡目候補として1783年(天明3年)から御城碁にも出仕させていた河野元虎が1796年(寛政7年)に死去し、1798年(寛政10年)に宮重楽山(本因坊元丈)を跡目とする。
 1802年(享和2年)に、前年の六段昇段にともない元丈の扶持米の下賜を願い出て許される。この願書では元丈の前に扶持を得ている井上春策が跡目から3年で扶持を下されたのと同様に、当時では異例の早さで願い出ている。またこの時、それまでの通例では家元四家の連署の際には跡目は認可順となっていたのを、本因坊家を常に跡目筆頭とすることを、他家を強引に説得して実現させた。これらは、察元が復興した本因坊家の権威、格式を守ろうとする意識の現れと見られている。同年、安井仙角仙知とともに八段準名人に進む。

烈元

 1807年(文化5年)に病気により、自身の隠居と元丈の家督相続の願書を出したが、これが許可される前の12月6日に死去。井上家、安井家、林家の協議で烈元の死を秘したままとし、翌年3月に願書を認められ、後に井上春策因碩によって死去を届け出られた。これは烈元が隠居願いにて隠居料も願い出ていたことによるとも言われるが定かでない。
 烈元は本因坊家の格式のために察元と同様に出費を惜しまず、このために元丈の代では節約を余儀なくされることになった。他に門下には、船橋源治(林元美)、関山仙太夫、伊藤子元などがいる。古写譜で明和7年頃まで沢村姓を名乗っているが事情は不明。
■幸手市の本因坊墓石巡りマップは次の通りです
墓石巡りマップ→こちらから

天神神社

 この天神神社は、徒歩数分のところにあり、日頃馴染みの場所でもあります。毎朝、神社の境内でラジオ体操の会が催されています。でも、最近はそのラジオの音がうるさい、との苦情が寄せられたりするようです。「子供の声がうるさい」ということで保育所の建設もままならない、と聞きますが、世相も随分せちがらくなってきたものですね~。この天神神社の由来、沿革など分かりませんので、以下に「ウイキペディア」の解説を引用させていただきます。

天神神社

 この神社はかつて「裏町天神」とも称されていた。境内地面積は1反3畝2歩となっており、祭礼は10月25日とされている。神社の創建に関して定かではないものの、幸手庄の領主であった一色氏によるものと伝承され、この天神神社は一色氏の館の鬼門に位置していたと伝わっており、館の守護神として祀られたとの言い伝えがある。

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 境内施設として、本殿(社殿)、鳥居(「天神神社」の神額)、阿形と吽形の狛犬一対、境内社(猿田彦大神、鳥居・狛犬一対・手水舎・水道あり)、案内板(複数)、天神町自治会館、天神町山車庫、「天神神社改築記念碑」と彫られた石碑、「奉納 宅地百八拾九坪」と彫られた石碑、「奉納」と彫られた石碑、「奉納 杉苗五百本」と彫られた石碑、防災行政無線、防火水槽、ベンチ、滑り台、ブランコ、鉄棒、イチョウの木、欅の木、松の木、杉の木、梅の木、棕櫚、つつじなどである。


 

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